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アトリエ マリア ポーセレン in 横浜
 
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  Etsuke ABC
《いつ、どこで

  16世紀 大航海時代の幕が開くと、シルクロードを通って中国や日本の
  珍しい品々がヨーロッパに持ち込まれました。
  なかでも、東洋の薄く白い磁器は 金や宝石と同じほど珍重され
  ヨーロッパの王侯達が競って蒐集し 自分達にもこの美しい硬質磁器が
  作れはしないかと熱心に研究を始めます。
 
  幾多の困難を乗り越え、ドイツ人ヴェドガーはやっと白く透けるような磁器を
  作り上げました。
 
  当初はモチーフも中国や日本の追随でした。 向こうの美術館などで
  柿右衛門がとても珍重そうに飾られているのは、こういう訳なんですね。
  たとえばマイセン。 “インドの華”は皆さんもご存知ですよね。
  時は流れて18世紀半ば頃から、ドイツの花が装飾画として描かれ始めます。
  多岐にわたる変遷を経て独特のモチーフラインを完成させました。
  生命感にあふれ、華麗な色彩と新鮮な表現力。
  多くの人を魅了せずにはいられません。
 

《磁器絵付けとは》
  真っ白な白磁をキャンバスに、描きたいモチーフをトレースします。
  その上に特殊な絵の具を使って彩色、金彩を施します。
  800度前後で焼成後 始めて完成します。

《絵具》
  磁器絵付けでは、特殊な道具を使いこなさなければなりません。
  たとえば、絵の具。 正しい
硬さに練られているか。
  これは描くものによって、オイルによって又、色によって粉とオイルの

  分量バランス
が変わってきます。
  また、筆への含ませ方によっても仕上がりは全く違ってきます。
  初歩的なことがとても重要なので、きっちり教えてくださるお教室を
  お選びください。
  練っている時、描いている時、重く感じる色と スムーズに動く色があるのに
  お気づきでしょう。 描くものによって変わりますが 一般的には濃い色は固め、
  淡い色はゆるめに溶きます。
  乾き方も色によって異なり、黄色系は比較的早く乾き始めます。

  
価格も大きく開きがあり、パープルやライラックなどの含金絵の具は高価なので
  練習用にはそれ以外の色がオススメです。
  
混色不可の絵の具は、特に注意が必要です。
  セレン、カドミウム等、絵の具に含まれる鉱物の種類によって変わるのですが
  赤系は他色と混ぜない方が良いと覚えていてください。
  見学はお電話にてご予約下さい。

《筆》
  1本1本手作りのため、同じサイズのものでも描き味が異なります。
  また、筆には
があり、描き易い面をご自分で探してみてください。
  この面はなるべく変えないほうが良いでしょう。
  勢いの必要な絵では特に、筆を動かす
回数を少なくする事も重要です。
  大きなサイズの筆で、大きなものから小さなものまで描けるように
  練習してみてください。

《オイル》
  描くものによっての使い分けが必要です。

    水溶性    速乾性
             遅乾性
    油性      速乾性
             遅乾性

  水溶性のオイルと油性のオイルを
混ぜて使う事はできません。

《下書き》
  油性のカーボンを使用すると、焼成後跡が残ることがありますので
  ご注意ください。


《金彩》
  金専用の筆を用意する。
 
  沈殿しやすいので、よく
攪拌してから使用する。
  固くなったら
金油で緩めるが、薄すぎると焼成後磨いた後で紫になる事があり
  分厚すぎるとはがれる恐れがある。

  描き損じて消す時は、直後なら水、少し経ってからはアルコールで。
  
消したつもりでも、少量でも残っていると焼成後薄紫色になるので要注意。


《白磁選び》
  蛍光灯と白熱灯をイメージしてみて下さい。
  生地の違い、
釉薬のかかり具合によって 硬質の純白に近いものから
  乳白色のボーンチャイナまで多種の白磁が手に入ります。
  釉薬の柔らかいものはつややかな仕上がりになりますが、焼成温度にも
  注意しなければなりません。
  器のデザインと描く図柄のコーディネイトもありますので、慣れないうちは
  講師にお尋ねになるのが良いでしょう。


《マ イ セ ン   ( 訳 : 鳴門真理子 仏→和 )
  Meissen

  王Augustは化金石(昔錬金術師が考えた人工的に金銀を作るために
  必要な物質)のようなポーセリンの発見に満足し、ヨーロッパ中に
  その驚くべき事実を知らせようと試みました。
  そしてBottgerのラボラトリーとアトリエで働く人たちは ただちにマイセンの町を
  支配していたAlbrechts Buro城に移されます。 そして彼らに身の安全を含め
  あらゆる特権を与えました。
  この時代はそういったことがよくありました。 たとえばベニスではムラノ島の
  ガラス職人に特権と法外な報酬を与えていました。
  しかしその一方では彼らは決して国を出ることは許されず、逃げようとした者は
  死刑に処されました。
  マイセンの職人たちも同様に素晴らしい特権を与えられていました。
  王はさらに工房で働きたい全ての外国の職人たちを税法上、法律上保護し、
  1736年には職人である夫が死んだ時に残った家族を助ける基金が創設され、
  1756年には残された妻の生活を保障する第二の基金が創設されました。
  仕事は私達が想像する以上に専門的であり いくつかの作品は何人かの
  背景画家の手にゆだねられました。 彼らはそれぞれに仕事を分担され
  その仕事はかなり緻密なものだったとされています。
  Bottgerrは 「アドミニストレーター」 つまり当時の社会の管理職の称号を
  与えられました。 彼は粘土の配合とその向上に専念します。
  それは骨の折れる仕事でしたがまだまだ新しい発見がありました。
  最初の作品は1710年にLeipzigの見本市で展示されましたが、まだまだ
  欠陥だらけで東洋から来た陶器とは比べ物にならないものでした。
  完全な作品ができたのは1720年になってからのことです。
  1719年の突然のBottgerの死後 新しい指導者の効果的な指導の下、
  ポーセリンはその品質、装飾ともに飛躍的な発展を遂げました。
  彼らは非常に有能な画家Horoldtを採用し、彼は様々なモチーフを編み出し、
  絵付け師のアトリエを指揮しました。
  また彼は職人を育てるための学校をマイセンの町に作り、6年間ここで学べば
  職人としての資格を得ることができるようにしました。

  1701年には白磁がその品質から3つのカテゴリーに分類されるようになります。
  1番目と2番目の品質の物は 小さい欠陥の物であれば製造工場に保留させますが
  残りの製品はすべて売り物にはせずに従業員やその家族に売買はしないという
  約束の下に配布していました。
  その結果多くの白磁は 工場ではなく絵付師の自宅で描かれ.るようになり
  品質が悪くモチーフも雑で、値段の安い作品が次々と出回り 「Hausmaler」 に
  大きな損害を与えました。
  このようなことはヨーロッパの製造工場ではよくあることでした。
  典型的な例がベニスです。
  セーブルの工場でも同様のことがありましたが、セーブルの工場ではちゃんと
  工場で作られた1級品と そうでない物を区別するために 欠陥品は壊されたり
  マーキングされたりしていました。
  August2世は1731年から製造工場を自分の配下に置き、当時のポーセリンの
  発展に大きな拍車をかけました。
  しかし彼の死後に後を継いだ息子は 工場の経営にあまり関心がなく、とうとう
  1756年から1763年までの7年間、マイセンはFrederic2世の軍隊に占領され
  その製造も全く行われなくなってしまいました。 アーティストや職人たちは皆
  マイセンを離れ他の工房で働きました。
  マイセンはその名声だけが残り セーブルに代表されるフランス陶器ブームによる
  長い間の衰退の時代を迎えます。 マイセンの作品が再び作られるようになった時、
  その時代の流行を取り入れざるを得ず ベルサイユからJean-Michel Acierを
  呼び寄せました。 しかし彼は技術は持っているものの 創造力、イマジネーションに
  欠け、1781年仕事から来る目の病で亡くなりました。 マイセンの代表的な
  アーティストKoendlerも1775年に亡くなり 彼らと共にSaxeのポーセリンの時代は
  終わりを告げました。

《セーブル》   ( 訳 : 鳴門真理子 仏→和 )
  Vincennes et Severs

  フランスでは17世紀後半、やわらかいポーセリンが登場します。
  それはとても高度な技術を要するものでしたが、1800年まで硬いポーセリンと
  平行して作られました。
  Sant-Cloud、Chantilly、Mennecyなど色々な作品が作られましたが
  マイセンに代わってヨーロッパにそのスタイルが広まったのはセーブルでした。
  1740年Chantillyの二人の職人 Dubois兄弟が国を説得してポーセリンを作る
  アトリエを創設し Vincennes城の人々を意のままにしました。 こうしてフランスで
  その後もっとも重要となる工房が誕生しました。
  しかし彼らは4年後には工房を出て行き 後に残された熱心な職人、
  Louis-Francois Gravantの下で工場は大きな進歩を遂げました。
  最初のVincennesの作品はマイセンを真似た物でした。
  1745年、Charles adamは王様に頼んでSaxeスタイルのポーセリンの作成に特権を
  与えるように申請し、そうして創設されたのが最初のSociete de Vincennesという
  会社でした。 Gravantは常に重要なポストにつき粘土の配合の向上に努めました。
  スタッフは色を混ぜ合わせる人と何人かのスペシャリスト(二人は花、もう一人は
  鳥と景色の)で構成されました。
  1746年には18人の画家が1749年には120人のスタッフが働くまでになり
  工房は大きく発展しました。
  1750年には化学者がその粘土はカラーのチェックの為に呼ばれるようになりましたが
  出費がかさんだために清算され、新たに別の会社が作られます。 そこでは王も
  スタッフの一員となりました。
  1765年からセーブルはフランスでのkaolinの発見のおかげで硬いポーセリンを
  作るようになりましたが やわらかいポーセリンも並行して作られていました。

  Pompadour夫人はポーセリン工房にに大変興味を持ち自らのセーブルへの移転を
  求めました。 新しい製造工場は1756年にできあがり1758年には250人ものスタッフが
  働くまでとなりました。 ルイ15世はすべての会社を買収しポーセリン製造は王の
  支配下に置かれ、ルイ16世も自らの死を迎えるまでそれを保護しつづけました。
 

 
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